"別れ"を過剰にリスペクトpeople

人はやたらと確定した最後を大事にする。

 

 


それは大事にする方はいいかもしれない
けど、される方はたまったもんじゃない
 
 
 
私はそう感じる。
 
 
 
もちろん、
嬉しいって人も多いと思う。
 
他人にそのときだけでも惜しまれたり求められたりするのって気持ちいい。 
 
 
 
わたしも、その感覚がわからないわけではない。
 
小4で転校したときなんかは、
転校するってしったらどれだけみんなが自分のことを寂しがってくれるのか
遠足の前日よりワクワクしたものだ。
ワクワクしながら、
お別れ会で配る鉛筆の袋にひとりひとりメッセージを書いて入れた。
 
でもお別れ会で交わされる言葉なんて9割型嘘かそのときだけの感情である。
なんでわざわざこんなことするんだろうといつも不思議になってしまう。
こんなことして何が生まれるんだろうって。
まあ、そもそも何か産むための会ではないからな。
浸り、浸り、浸り、ひたすら寂しさに酔うことでその関係性に区切りをつけるものである。
 
最後だから何か言っとこうとか、最後だから。最後だから。
 
言いたかったけど言えてなかったこととか、
まあ言われた側も嬉しいことも多いんだけどさ。
それをやりあう会だもんね、
いいんだけどさ。
 
 
 
でもね、本当に大事なのは最初でも最後でもなく
 
その間
 
だと思う。
 
その間が一番長く濃くあるべきなのだけど
その延々と続くようにみえる道のりは
 
最後という究極の期間限定
 
にはとうてい勝てない。
 
 
だから私はお葬式が大嫌いだ。
 
というかやる意義がわからない。
わからないというのは、
これを
 
亡くなった人の為にやる
 
という意味に対してだ。
 
私はこの歳にしては多めにお葬式を経験している方だと思う。
 
お葬式が滑稽で不思議なものに見え、
うるっとも来なくなったのは高2のときである。
 
ひとことでいうと、
 
「いやいや、それ全部お前らの為にやってんだろww」
 
である。
お花そえたり、儀式したり、坊さんにお経唱えさせたりして
 
安心したいのだ。
これからも生きていくために。
 
その行為を否定はしない。
 
亡くなった人はもう苦しまないけど、
これからも生き続ける人たちは
大変だから
健全な心の為に必要なことだと思う。
 
お葬式は残された人たちの心のケア、
受け入れ納得し
これからも生きていくための手段のひとつだと思う。
 
しかしそれに気づかず死者のためだと思い込んでいる人々の涙をみるとどうしても虫唾が走る。
まあそんなの思わない方がうまく生きていけそうだし、
ほんとはみんな分かっててやってるのかもしれないし。
うーん、そんな話しないからわかんないや。
 
とにかく死者に対して後悔したり惜しんだり大事にする人間をみると、
 
「泣くなよ、泣いてももう届かないんだから。
生きてる間に
もっと愛して
もっと濃い時間を過ごそうとするべきだったんだよ。
馬鹿が。」
って思う。
 
ほんとやなやつだな。
 
 
私は別に
死んだら終わりとか
完全な別れだとかは思わない。
もはやその人が生きている人の記憶に残っている限り、
別れは来ないと思ってる。
心に残っている言葉とか表情とか変な癖。
いろんな思い出がみえなくてもある限り、
そばにいるじゃんって思う。
生きてる間に大事にして、
亡くなってもお別れじゃない
だったら後悔なんてしないでしょ。
 
本当の別れは主観的に悲しくならない別れをいう。
そのときには、
もう、
記憶がないのだから。
 
完全な
 
"無"
 
である。
 
 
覚えているうちは存在すると思っていい。
 
 
 
 
まあ人間そんな簡単にいかないし、後悔だってするし、泣くんだけどさ。でもそうやってグルグル考えを巡らせているとお葬式も卒業式も泣けないんだよなあ。
 
昨日初めてのバイトをやめてきたんで、別れについて考えを巡らせてたら
こんなぐたぐたになっちゃった。
 
また。